3.Dysfunction and High School/機能不全と高校

「平凡は僕の最大の恐怖」(1989)


ロバートの両親は15年連れ添った後離婚。両親はよく喧嘩をしており、ある日ホテルで父親が投げつけたミルクセーキが天井に付いたのをロバートは覚えている。RDSは麻薬で苦しんでいた。「70年代後半は最悪で、災害のようだった」とRDS。
両親はよく借金をしており、RDSの給与は借金返済に消え、電気と電話をよく止められた。両親はますます放任主義になり、ロバートは13歳の時に一日でヴァーモントにいる姉の元に行ったこともある。だが、離婚が決まった時、エルシーは気絶したとロバートは記憶している。RDSはLAに移住。弟の反対にも関わらず、姉のアリシアもLAに移住。母エルシーには誰かが必要だったため、ロバートはNYに残った。2人は5番とマディソンの間の小さなアパートに引っ越した。窓の向こうにはバーがあったが、オーブンはなかった。ロバートは母親を支えようと必死だったが、次第に家を避けるようになった。”The Rocky Horror Picture”を見に映画館に通い、ワシントンスクエア公園で友達とブラブラし、時折母親から金を盗んだ。より多くの薬物を試すようになり、「コカイン中毒」からもっとハードなモノも楽しむようになった。
10代の間、ロバートはNYとLAを行き来して過ごした。「ティーンエイジャーにとって、それはかなり混乱することだった。いつも移動して、あっちへフラフラ、こっとへフラフラしていた。薬物も摂取していたから、僕はかなり近づきにくい存在だった。自分の人生を効率的には扱ってなかった。代わりに、自分が生きている現実とは別の現実を作り出して、それがベストだと思ってた」
70年代後半のNYは、パンクが大ヒットしていた。が、ロバートはよりメロディックでゆったりとした曲を好んだ。彼は”Big Apple(NYCの愛称)”に馴染めないことに気づいた。
母親はキルティングケープをかぶってロバートを学校に迎えに行った。海岸沿いの静かなLAの方が居心地がよくなってきた。RDSの家は大きく豪華だった。沢山の芸術品やプールがあった。ロバートはプロの俳優になりたいと強く思うようになり、ハリウッドが自分の居場所だと気づいた。
ロバートは西海岸に引っ越し、リンカーン中学校に8年生として転校した。そこは、サンタモニカ高校のフェーダースクールであり、太平洋から4ブロック、州間高速10号の近くだった。何日出席したか定かではないが、1979-80年に9年生として学生簿に登録がある。パンクロックとスケートボード、コカインに何百人ものひとり親家庭に暑い気候は「シーン」を作り出した。
ロバートと同時期に学校に通っていた人々は、様々な彼の思い出がある。が、彼は傲慢で飾らない人。ちょっと間抜けでイキっている。
生徒の殆どは、サウスサイダーと呼ばれていた。彼らは鍵っ子で、時間を持て余していた。ロバートは少々お金があり、北部に住んでいた。マーティン・シーンの息子たちでエステベスの子供(チャーリー・シーン、ローマンとエミリオ・エステベス)は、彼もそうだったと言っている。彼らは「自分たちの世界に住んでいて、クラスメイトと決して繋がろうとしない、学校の周りの影」のような存在だった。とある女子生徒はそれは違うと記憶している。「ロバートは率直で自信があって人気者だった。私は大人しく、人気グループの一員ではなかったけど、学年末にロバートは私のイヤーブックに寄せ書きするって言ってくれたの。ちょっとした衝撃だったわ」だが、彼はスキャンダラスなことを書いたので、「当時は面白くなかったわ。文字通り父親からそれを隠さないといけなかったから」。
1980年秋、10年生になり他の生徒同様、ロバートはサンタモニカ高校に入学。サンタモニカ高校は、SAMOHIと地元で呼ばれており、フリーウェイの反対側のヴェニスビーチ近くにあった。ロバートのドラマチックな一面は、彼はNY出身だからタフに違いないという生徒たちの思い込みから来ている。つまり、彼がやったことがないこと…靴下にナイフを突っ込み海沿いを自転車で走り回るような役を演じることを要求された。”The Outsiders”のように。実際のところ、ロバートは演劇オタクで合唱部のレギュラーだった。
クリス・ベルはロバートより1歳年上で、彼が入学した時のことを覚えている。「ロバートはNYから来た唯一の奴だった。演劇のオーディションがあった。彼は陽気だった。自分がやりたいような役に医者役のキャラを書き換えた。僕らは一緒に劇をした。僕はロボット、彼は開発者。アイザック・アシモフの短編小説だ。彼は面白かったし僕らは同じユーモアのセンスを持っていた。僕らは良い友達になった。いつも冗談を言った。彼は飄々としていた」
ベルの祖母はRDSの近所に住んでいた。RDSの兄のジムは、サタデーナイトライブの脚本家でよく家を訪れていた。ベルはロバートの家に入り浸っていた。お気に入りの「シャイニング」のような映画を家で見たり、スクランブルエッグを山程食べたり、スティービー・ワンダーをかけながらロバートの最初の車を乗り回したり、コーヒーショップへ行ったり、ミュージカルを歌った。ロバートは幼い頃にブロードウェイで見た”Hair”の大ファンだった。父親がジャズピアニストのコリン・ケラウェイとJack in Boxに寄り、ジャンボジャックハンバーガーを買った。「一度だけAngeles Crest Mountainにキャンプに行った。僕だけシリアスになっていて、朝起きたら寝袋で外に転がっていて、皆んなは車で待っていたことがあった。コリンはエアガンを持っていて、僕らは色んなものを撃った」と、クリスは語った。
「RDSはロバートをかなり自由にさせていた。彼の家は滅茶苦茶楽しい場所だった。彼の父親はいることの方が珍しかったから、僕らはたむろできたんだ」ロバートは母親について語るのを避けていた。「彼は母親についてあまり語ろうとしなかった。姉についても詳しく知らない。彼はLAにいることにとても興奮していたよ」
数学の授業で、ロバートは後のPorno For Pyrosのギタリスト、ピーター・ディステファノの宿題を手伝った。演劇部で『劇場で最も成功しそうな人』賞と『Bigger Flirt(ロマンスを念頭に置いて女の子と話す男』賞を受賞した。ロバートは鍛え上げられた体で、うれしそうな顔をしていた。「彼は筋肉を見せびらかすようにシャツを開いて更衣室に行っていた」ロバートはまた、そのスタイルでも注目されていた。「彼のことをみんなスタッドリー・ムーアと呼んでいた」
マドリガーレ(イタリア発祥の歌曲形式の名称)のグループで、フィル・コリンズからはほど遠い、16世紀の作曲家であるトマス・モーリスのような昔ながらの伝統的なアカペラソングのバリトンやベース歌っていた。「ロバートはいかした靴を履いているとみんな言ってた。彼はCrayonsを着ていてファッションセンスは目立っていた。彼は神秘的だった」
ブロンドヘアは彼のトレードマークである黒髪になり、女性ともうまくやっていた。「ロバートはいつも女の子を追いかけているようだった」彼はハイディ・コザック(写真。80年代後半にホラー映画などの出演)と関係があった。

学校一ホットなアンバー・ギルバートは、学校のプールでビキニ姿を見せびらかせて興味を示していた。ロバートは後に、アンバーの車で一緒にサンセットブルーバードをスリリングにドライブしたことを思い出している。他のティーンエイジャー同様、異性からyesと言われ興奮した。
「僕らは当時最先端だったサンタモニカプレイス(ショッピングモール)に行っていた。ロバートはケリー・マクレイノルズにダンスの相手を頼んで彼女はyesと言った。彼は立ち上がってモール内の噴水に飛び込んだ。それは中央に噴流を備えた大きなプールだった。ロバートはそこを歩き回った。僕らは面白さと同時に恐怖を感じた。彼はすぐにセキュリティに連れ去られた。釈放されるまで25分くらい待った。そして二度とモールに来るなと言われた。この話は、彼の友達でいることは、とても楽しく贅沢でワイルドだということ。問題があることも多かった。でも最高の瞬間がいくつもあった」
ロバートは自分を部外者のようだったと言っている。友達はみんな高校の落ちこぼれと言われるような人ばかりだった。「ロバートは最初は大人しかったけど、最終的には自信満々になった。彼は社交的だったけど、友達を寄せ付けなかった。ほんの数人を除いて。かっこいいとは言えなかった。ロバートは人気を追いかけなかった。彼はたくさん旅行をしていたので、かなり俗っぽかった。僕は彼のことを凶悪犯のような子だと思ったことはない」とベルは語っている。
が、翌年状況は変わった。ロバートの新しい親友は、リードを呼ばれる、ローリングストーンズのTシャツを着て、英語の授業で”climax”という言葉について煽った、長髪の夢想家だった。彼らはいつも酔っていた。
そしてロバートの最も悪名高い事件が起こった。「僕らはサンタモニカであった友人のパーティーに参加していた。僕は母親の古いメルセデスベンツを持っていた。僕らは飲んで、パーティーから逃げ出そうと座りこんで数人で話していた。僕らは母親の車の上に座っていた。彼は外を眺めていて「ちょっとだけここに座っていたい」と言った。だから僕は彼をそこに残して去った。パーティーに参加していると突然誰かが言った。「ロバートが2ブロック先で逮捕された!」と。僕らは「何だって?!」って。彼は僕の母親の車で走り去ったんだ」彼は車を壊したという噂が飛び交ったが、実際は無傷だった。「車は戻ってきたけど、彼の父親は酷く動揺していた。僕らは車の鍵を返してもらうために、サンタモニカ警察署に行かなければならなかった」ロバートは飲酒運転をして、道に迷った彼は警察官に道を尋ねた。数年後、ベルはNYでロバートと会った時、彼がリードと電話しているのを聞いた。ベルと遊んでいると伝えると、リードはショックを受けていた。というのも、ベルは車の件でまだ怒っていると思っていたから。「彼らはあの話を大げさにしたんだ」とベル。
生来の知性を頼りに学校を駆け抜けてきたが、ロバートはある朝、20フィートの高さの金網を乗り越え脱走した。とバートと友達は近くのドイツデリに行き、カウンターの後ろの男にUCLAに行くこと、ダグラスパークに行って酔っぱらうためにグロールシュかシュバーデンビールを買うと伝えた。時には学校が終わる頃戻って、ドラマやミュージカルのプログラムに参加した。マドリガーレのグループは真面目で、地元の大会で優勝するほど優秀だった。そのため、週5回練習をし、キラーというニックネームの教師が主催するコンサートを年20回していた。「合唱団の人間はオタクだった。コーラスに参加することで、彼は社会的に危機に晒されていた」と元メンバーは言っている。
SAMOHIではクリエイティブなことにあまりないお金が使われていた。「僕らには素晴らしい講堂があった。「オクラホマ!」をやった時、フルオーケストラだったんだ」
ロバート自身もその伝説的なミュージカルを演じたことは、高校時代のお気に入りの思い出の1つだと言っている。ロバートはダンスや歌や演技をよく指導された。「探偵物語」を演じたり、リチャード・シュリダンの「恋がたき」でキャプテン・アブソリュートを演じたり、「オクラホマ!」のためにラモン・エステべスにタップダンスを習ったりした。
「ロバートは舞台の上で素晴らしかった。僕は彼の映画作品は彼を不幸にしたように感じる。舞台での歌や踊りに関しては、ヒュー・ジャックマンよりもロバートのほうが上手いんだ。彼は別のルートに進めたかもしれない。いい映画もいくつかある。でも舞台上の彼のようなインパクトはないんだ」
ロバートはその頃すでに業界の連絡先をたくさん持っていたし、彼が”The Outsiders”のオーディションを受けたと友人たちは信じている。「彼は大出世を約束されていた。僕らはみんな彼に大満足しているよ」

サンタモニカ高校、1982年イヤーブック

「学校は僕向きじゃなかった」
「現実世界で学ぶ方がいいと思った」
「教育制度は僕を窒息させた」
「10代の僕を理解してくれる人は誰もいなかった」
とロバートは言っている。
11年生になり、ロバートは段々不登校になった。卒業間近だったが、父親が仕事でNYに戻ることになり、彼は決心した。
アリソンはヴァーモントの寄宿学校に行く前にしばらく東部に戻っていた。彼女は首席で卒業し、彼女の先輩と共に、NYのワシントンハイツに引っ越していた。
ロバートは独立してLAに留まるか、父親の支援の元で東海岸に戻るか決めなくてはならなかった。それは簡単だった。カウンセラーはロバートを呼び出し、サマースクールの仕事でSAMOHIに残ってほしいと告げた。ロバートは代わりに辞めた。ロバートは「彼女は『あなたのお父さんに電話します』って感じだった。彼女は父に電話した。で父は『もちろん。彼がやりたいことは何でも。就職して生産性があれば』と。僕は言った。『言っただろ』と。で、学校を出て行った」
ロバートはひとまず、サンタモニカのスリフティ薬局で在庫作業と客にアイスクリームを配る仕事をした。「シフトが終わって家に帰って手を洗いまくった。牛のにおいがしたからね」彼は友人たちとカウンタースキームと呼ばれることをした。高額なものを友人が買いに来て、安く請求し、差額分をくすねるということを。東部に戻って教育を受け続けるという選択肢はなかった。
1987年、クリス・ベルは旧友から突然電話をもらった。「当時彼はサタデーナイトライブの出演を終えたところだった。彼は間違いなくスターだった。彼はすでに映画に出演し成功していたが、まだ同じ男だった。彼には非常にプライベートな側面がある。多くの彼の友人は、彼の面白くて人懐っこくていいやつという面だけを知っている。彼はダークな一面を持っていると僕はほのめかしたくない。かなりプライベートなことだから。彼の家族については話さなかった。彼の父親についてさえも。面白いこと以外はね。彼自身も両親や崩壊した家族のついて共有したことはないと思う。薬物についても問題もその一部だ。テレビでロバートを見ると、彼のことを覚えている方法で取り込まれるんだ。彼はいつも声を上げていて、キャラクターを身にまとっていた。彼は物事を真剣に受けてとめていなかった。彼はいつも人生に偉大なる愛を抱いていたけど内なる悪魔がいたことを知っている」とベルは語っている。

【補足】
1981年リトルリーグでの、同級生の思い出。

著者ブライアンは眼科医。81年、NYからサンタモニカに引っ越してきたロバートと初めて出会った。ロバートはリンカーン中学校に入学し、リトルリーグの野球チーム、エンジェルスに加入。ロバートは9年生、ブライアンは8年生だった。
当時ロバートはロビーとかロブとか呼ばれていた。ブライアンはロバートと仲良くなった。野球チームはとても楽しかった。ロバートは素晴らしいユーモアのセンスを持っており、別のチームメイトに”Slap-Happy-Pappy”とニックネームをつけて練習していた。が、試合になると彼は非常に真剣だった。
ロバートは最善を尽くすことに集中して、静かに準備し、フィールドに足を踏み入れていた。コーチの指示に集中して従っていた。
彼は演技についてあまり話さなかった。新天地に順応していた。ロバートは色々なグループに友達がいたが、1つのグループに属することはなかった。
ロバートは素敵な服を着ていた。おそらくNYでもそうだったのだろう。時々一緒にランチを食べ、授業の合間に女の子や野球の話をした。
エンゼルスには俳優になりたい子が他にもいた。仮にデイブとしておく。ロバートとデイブは2人とも素晴らしい俳優になりたいと思っていた。
デイブの叔父は有名なエンターテイナー、ロバートの父親は有名監督。2人のうち1人だけが目標を達成した。誰かは知ってるだろ?
数年前、ロバートが成功した後、どうして彼が成功したか考えた。ロバートは当時大人しく、自分の面白い面を様々変えることはできたが、重要なことを真剣に受け止めていた。
中学生にしてはかなり成熟していた。勤勉で起立を体現し、何年も先輩な子供たちよりも特徴的に行動していた。一方、デイブは、常にクラスの道化師になろうとし、野球を真剣にするよりも、クラスメイトから笑われるということを心配していた。おそらく、内なる意欲や自己規律、精神的な焦点の違いだ。
フランクリンは『勤勉は幸福の母』と言った。これは演技だけではなく、あらゆる努力や職業で成功した人の背景にある鍵だ。プロのアスリートやオリンピック選手のメンタルトレーニングにも使われている。自分自身に謙虚になり一生懸命働き、個人的な犠牲を払うことで、結果を実現する可能性が高くなる。数ヶ月、数年、または数十年かかることもある。成功への道は、途中気が散ることがあっても、目標に向かって集中し続けることだ。否定的な発言をする人は、出来るだけ早くあなたの人生から切り離して。そうすることで人生はより良くなるから。

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